労働衛生の歴史

 歴史的には、富国強兵すなわち、兵力、労働力の確保が主目的で、慈善・救貧あるいは企業防衛の考えから、労働者保護を目指しました。

 古くは、紀元前1550年頃のエジプトのパピルスに外傷や災害傷の 48 症例が書き写されています。
 この頃の奴隷達はピラミッドを作るのに日夜、強制労働させられていましたが、一般市民の生活も悲惨だったようです。

紀元前370年頃、ヒポクラテスは、鉛中毒による腹痛(鉛疝痛)の記載をしています。

 古代の労働は主に奴隷が行っていました。奴隷の生命や健康は問題にされません。

奴隷について

 奴隷制は古代社会にはどこでもみられますが、ギリシアのポリス社会は、古代ローマとともに、世界史上最も奴隷制が発達した社会です。
 奴隷とは、他人への隷属性が最も強い人間であり、人格が認められず、所有者の意のままに労働を強制され、譲渡・売買された人々です。一般的に、その発生の原因は、戦争の捕虜・略奪・世襲・債務の不払いなどです。ギリシアでも債務のために転落した市民、捕虜、奴隷として輸入された異民族などが奴隷として売買されました。

 アテネには、人口の約3分の1にあたる約8万人の奴隷がいました。その多くは異民族の奴隷でした。債務奴隷も多かったですが、ソロンの立法以後は禁止されました。
 アテネの場合、奴隷の多くは召し使いなどの家内奴隷でしたが、銀山(ラウレイオン銀山が有名)をはじめ鉱山でも大量の奴隷が使用され、その生活は最も悲惨でした。また陶器の製造をはじめとする手工業でも奴隷が使用され、市民の生活を支えました。スパルタでは被征服民が奴隷とされ、ヘロットと呼ばれ、農業労働に従事しました。

 有名な哲学者アリストテレスは「奴隷は生きた財産である。・・・奴隷と家畜の用途には大差がない。なぜなら両方とも肉体によって人生に奉仕するものだから。・・・」と述べています。
 キリスト教では「神の前では同じ対場にあり、奴隷は真心から主人に仕え、主人は奴隷を正しく公平に扱え。」と説いています。
 奴隷の人権は認められません。

 15世紀から19世紀にかけて、スペイン、ポルトガル、オランダ、英国などが、多くのアフリカ人を捕え、アメリカ大陸などで奴隷として酷使しました。
 その数は3,000万人ともいわれ、悲惨な奴隷狩りや奴隷船での連行・虐待・死亡が語られています。

 2001年9月、国連主催の「世界人種差別撤廃会議」で「過去の奴隷制度と奴隷貿易は人道に対する罪」と決議しました。

 今はもう、奴隷はいないはずですが・・・。

手工業の時代

 752(天平勝宝4)年 奈良東大寺大仏の鍍金が開始され,水銀中毒が発生したとされています。
 10世紀ごろまでは、独立自由の職人の組織はなく、仕事場に閉じ込められた奴隷とか農奴とかが、手工業生産をしていました。
 10世紀ごろ「ギルド」と呼ばれる手工業者や商人の職業上の団体が生まれ、相互扶助と特権の保持をはかりました。

 1524年 U.Ellenbog(南独の医師)は、銀、水銀、鉛から出る有害な蒸気とその防ぎ方を書いた、8ページのパンフレットを出版し、これが職業病に関する世界最古の文書です。
 1556年 G.Bauer は採鉱冶金の技術書の中で「ある鉱山では乾いて水が全くなく、掘る時粉じんは気管に入り、肺に進入して呼吸困難となり・・・、粉じんが腐食性だと肺を壊し“肺癆(じん肺、肺癌、結核)”となる」と書きました。
 その他にも多くが、鉱夫の病気について発表しています。

 1637年(明)宋應星「天工開物」の中で砒素中毒や酸欠について記載しています。
 1673年(延宝年間)佐渡の医師益田玄皓、銀山の金穿師の病気(煙毒)に対し紫金丹を投薬しました。

Ramazzini  このように、一般労働者の過酷な生活が続きます。
 社会の衛生水準も低く、人権などと言う言葉すらありませんでした。

 1700年に、イタリアで、産業医学の父と呼ばれる、ラマツィーニ(1633〜1714)が「職人の病気(De morbis artificum diatriba)」を出版しました。

 この本の素晴らしいところは、作業と作業環境の両方の病因にふれていることで、現在の労働衛生の考え方と完全に一致しています。

 1713年の改訂版では53の職業について、その内容、生じる病気、症状、治療法、予防法などが、述べられています。
 このころまでに見られた職業病は、Ramazziniの本に出てくる、水銀中毒、鉛中毒、二酸化硫黄中毒、じん肺、近視、難聴、綿肺、頸肩腕症状、静脈瘤、脱腸、梅毒のほかに、皮膚癌、肺癌などでした。

産業革命以後

イギリスの産業革命が始まった頃(1760年頃)、多くの農民が都市に集まりましたが、労働条件は過酷で、労働者の平均寿命は16才でした。
 大人は16時間、子供でも12時間働き、作業上の安全対策もないまま、5才の子供から働いていました。
 労働災害、職業病は野放しのまま、生活環境も劣悪で伝染病も蔓延していました。

 1842年、イギリス政府は労働力確保のために、労働者が早死にの原因を調査し、伝染病の予防が最大の課題であり、環境衛生の改善が最も効果的であると結論を出しました
 しかし労働者の健康状態にたいして、適切な対策は殆ど取られませんでした。雇主は労働者という人間を金を出して買ったのではなく、労働力を買ったのだから、労働者の健康と生活条件は関心事ではありません。

 これでは富国強兵どころではありません。

 1788年(イギリス)煙突掃除とその徒弟の改良取締法が制定され、8歳以下の少年が煙突掃除人の徒弟になることが禁止されました。
 1802年(イギリス)世界最初の労働者保護法「徒弟の健康と風紀に関する法律」制定されました。
 1833年(イギリス)工場法が制定され,立ち入り検査権を有する工場監督官が任命されました。
 1869年(ドイツ) 職業法が制定され、全ドイツに労働衛生行政が広まりました。
 1874年(アメリカ) マサチューセッツ州で婦人の労働時間を1日10時間、週160時間と規制する法律が制定ました。

江戸時代以降の日本の労働衛生

 江戸時代、鉱山労働者におけるじん肺は「よろけ」や「煙毒」として古くから知られていました。
 1842(天保13)年 生野銀山で,煙毒予防のため梅干しの支給が行われました。
 生野銀山孝義伝(1849年)には「坑内労働者は18、19歳で仕事を始め、30歳くらいで死ぬ。40歳まで生きるものは少ない。」の記載があります。

 1875(明治8)年 フランス人医師マイエ、富岡製糸所から生野鉱山に移り、フランス人技術者の診療を行いました。産業医ですね。
 1879(明治12)年 コレラ大流行。患者総数162,637人、死亡105,786人。明治19年にも大流行し死亡108,405人です。
 1888(明治21)年 後藤新平、「職業衛生法」を大日本私立衛生会雑誌に連載。

 日本の産業革命も、紡績業が主役で、婦人の長時間深夜労働と低賃金が支えていました。
 寄宿舎では大部屋に1畳1人の割で数十人を収容し、2組2交代労働であったため、2人で1組の寝具を交互に用いる状態が普通でした。
 石原修は1913年に「衛生上より見たる女工の現況」で、病気で解雇される原因の5割以上が結核であり、病気で帰郷後7割以上が結核で死亡している、と発表しました。

 「ああ野麦峠(あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史:山本茂美)」の世界です。
 同世代の人口の3分の1が結核で、3分の1が戦争で死んだとも言われる時代もありました。

それ以後

 1911(明治44)年 工場法(労働条件、婦女子の保護、深夜業務の廃止、業務上負傷疾病扶助など)が議会を通過しましたが、不況のため施行は延期されました。
 1915年(アメリカ) 産業看護婦(Industrial Nurses)の登録始まりました。
 1916(大正 5)年 工場法施行令が公布され、工場法が実施されました。
 1931(昭和 6)年 労働者災害扶助法、同責任保険法公布(工場鉱山以外の屋外労働者の業務上傷病が災害扶助の対象となる)。

 1947(昭和22)年 労働省設置法により、労働省が設置されました。
 1947(昭和22)年 労働基準法、労働者災害補償保険法、労働基準法施行規則、労働安全衛生規則、公布。
 1948年 世界保健機関(WHO)発足。
 1960(昭和35)年 じん肺法、じん肺法施行規則公布。
1972(昭和47)年 労働安全衛生法,労働安全衛生法施行規則,労働安全衛生規則が公布されています。


 詳しい年表を、産業医科大学産業生態科学研究所のホームページ内の産業医学資料展示室で見ることが出来ます。

[「労働衛生とは」と分離、文章追加、デザイン改訂:2004年1月3日、小改訂2月24日]

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